【2000年2月号】

【唐招提寺】    

いつもの表紙は中央に別の写真が入り、その場所の特徴を表現しようとしているので、2月号は国宝の建築物と中央にはやはり国宝の鑑真和上座像と来るナ、と予想していたが見事に外れた。
今月の表紙は、唐招提寺を語っていない最低の出来である。表紙の左右いずれも国宝の金堂の部分で、タテ組の方が正面、ヨコ組はその正面8本の列柱を、横から写したものであるが、金堂は全景でなくては、唐招提寺が判らない。田舎の貧乏寺の本堂の趣でありながら、見据えていると この7間4間の寄棟造り、何とも悠揚迫らざる落ちついた気分になると言う名建築物であり、全景が欲しかった。
叉 鑑真和上(688~763)座像なくして唐招提寺は、語り得ない。遣唐留学僧の普照と栄叡が在唐10年の後、伝戒の師の推薦を頼みに行ったのが、天平14年(743)の事、鑑真自身が渡日を決心。それからが大変で、日本渡航を5回計画して悉く失敗、失明してなお目的を果し、奈良に入ったのは天平勝宝6年(754)東大寺の大払開眼の翌々年の事である。
我が国への仏教公伝は528年(552年とも言われる)だが、正式に受戒した僧は皆無であったので、朝廷の命で普照と栄叡が渡唐し、伝戒の師の渡日を懇願しに行ったのであるが、鑑真は既に江南から淮南にかけての最高の律戒の大師として有名人で、その当人がまさか来日してくれるとは思っても見なかったであろう。
鑑真76歳 天平宝字7年(763)に弟子の忍基が 師の遷化近い事を予感、座像を作ったと言われているものが、国宝 鑑真和上座像である。
冒険・ロマンに満ちた鑑真和上の生涯と共に、唐招提寺の成り立ちは、ほかの世界遺産のように抑圧者の影がチラつかない清々しいもので、人の心を打つ。
唐招提寺の初代長老の鑑真から数え 森本孝順が81代目に当たる(そう言えば栄林寺住職の桜井も同じ孝順だったナ)が、先代の橘家円蔵ソックリで、凡そ坊主っぽくない顔立ちのお人だったが、東山魁夷に頼んで書いて貰った、御影堂宸殿26面の襖絵も、いずれ年を経れば重文級以上の評価は受けようから、唐招提寺の宝物を増やした事は間違いない。
2月号の唐招提寺 表紙を期待していたので、失望も大きい。来月はどうかナ。 ハイッ。