【1999年11月号】

【合掌造りの民家】

巻頭の俳句 飛騨は天領、我々の遠州と同じく幕府直轄地。三っ葉葵に掛けての句でございましょう。今月は天領と合掌造りをコジ付けようと言う算段。さてお立ち会いだョ。
表紙の写真にあるように、飛騨の山奥 岐阜県白川郷荻町ばかりが有名ですが、富山県の五箇山の相倉・菅沼、両方の合掌造りの集落が世界文化遺産に登録されたのは、平成7年の12月で、日本では6件目の登録遺産ですナ。
世界遺産と言うネーミングから何となく内容は理解出来ますが、世界遺産条約は1972年にユネスコ総会で採択し、1975年に発効した「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」の略称で、日本は1992年に批准。静岡県は富士山をこの自然遺産に登録しょうと、静岡新聞などを使ってキャンペーンを張っていましたが、まァ贔屓の引き倒し見当違いと言った処ですかナ。
叉首構造の切妻造り茅葺き屋根の家屋を、合掌造りと言うんだそうで、この表紙の写真は火災訓練用には良くても合掌造りを語っていません。役場から借りりゃァイイてぇもんじゃアナイ!城址展望台から薄暮の灯を写すぐれェの風景にして貰いたかったネ。
タテ組中央の葺き替え風景ですが、3月下旬から4月下旬頃、 準備を含めて1日200人程で2日間で葺き替え、30~40年の周期で葺き替えの必要があると言う話。この共同作業お互いサマの作業を「結(ユイ)」と言う訳ですナ。弱い人間同志 肩寄せ合って助けあって生活してた訳ヨ。
「アマ」は「天」で高い場所。かっては遠州地方でも通常語で、我々オジンは普通に使っていた言葉ですゾ。飛騨の「アマ」での養蚕もキツイ仕事ではあったのですが、表紙説明にある塩酸(火薬の原料)作りは縁の下。
これを読む時間が食べる時間だといけないので、詳細は別の機会に譲りますが、この原料・臭気は大変で、如何に暮らしを支える重要収入源とは言え、大変と言う言葉を遥に通り越す労働と生活であったかが想像出来ますナ。
戦国時代・江戸時代、塩酸(火薬の原料)は農民の手を離れれば、高価なものですが、平和利用目的ではない訳で、生活する為に死の商人や武家階級のニーズに合わせて、辛い作業を続けたのでしょう。これらの時代、日本の人口は増加していませんから、「合力(コーリャク)」と言う相互扶助の美風の陰で、労働力だけの価値しか認められない二・三男は結婚はおろか、独立家屋での生活はならず、支配階級の搾取の下で、大家族を収容する合掌造りのどこか片隅で寝起きしていた事になり、それら農民の哀しみを想う時、雪深い飛騨の山奥の合掌造りに、哀感が漂っているのはむべなるかなてェ事ですナ。
天領支配は「お代官さま」いわば出張所長ですから、民の側に立つのではなく、上ばかり見て己の保身・蓄財や立身出世のみしか頭にない悪代官が多く、庶民の苦しみは悲惨なもので、農民の開放は敗戦・外圧を待つ迄続いた訳で、テレビの水戸黄門の根強い人気の所以でしょうョ。 任侠の徒などとエェかっこしいの人間の屑 ヤクザも、この時代 治安統治の能力に欠ける悪代官支配の天領に 主として跋扈していた事はご存じの通り。
はなはだしきは二足の草鞋などと言って、ヤクザに十手捕縄を任せる代官などが罷り通り、泣くのは常に善良な庶民ばかりだゼ。世界遺産の時代背景は、辛く哀しいものが多いやネ。ハイッ。