【2000年3月号】

【さテ最後マジにやろうッと サァサお立ち会い 東大寺だョ】  

表紙へのコメントは、3月号で終り(いつもお寺さんばっかりでさァ 来月も清水寺 もう飽きちゃったもんナ)

「水取りや こもりの僧の 沓の音」 芭蕉
東大寺はやはり修二会(お水取り)と、大仏様と言う事でしょうか。今月の表紙説明は大変詳しくて結構ですナ。 まァそんな事で、本筋から脱線して いって見ましょうかネ。
修二会は3月1日から14日までを言い、お水取りとは12日深夜 本尊へ供える霊水を汲む儀式の事を言いますが、のちに修二会全体の俗称となったもの。季節が丁度卒業式の頃なので、季語の如くに 昔は答辞などで良く使われたものでしたナ。(いまも使ってるのか?ナ)
表紙の火の海は、籠松明と呼ばれる大松明が11本、二月堂の舞台を巡り、二月堂全体が炎に包まれている様に見える風景ですナ。
三月堂は千ニ~三百年前の造営で、二月堂と三月堂は「栄と寂」「生と死」の対照と言われてますので、文人墨客は三月堂を熱っぽく語り、芸者衆の寄進などは二月堂だけですナ。そりゃァ寂と死じゃァ お姐さん方 商売にならねェもんネ。
聖武の妃 光明は絶世の美女とうたわれ、藤原不比等の娘。この夫婦どこから見てもカミさんの方が上で、ヒガ(?)んだ聖武が東大寺内陣は女人立入り禁止としたら、光明皇后は国分尼寺としての法華寺に、男子の入るのを不許可。この寺の国宝 十一面観音のモデルは光明皇后と伝えられ 実に豊満。仏像はもともと信仰の対象、モデルなどとはもっての他と言う考えも、厳格に守られていたのは飛鳥白鳳までで、天平には模倣の概念もあり、当時の仏師達の傾向がその言い伝えの基でしょう∃。
そんな下世話の話もあり、続日本記には「もともとは東大寺や国分寺は光明の勧めたもの」と言う記述もあるぐらいで、二月堂本尊も十一面観音だし、美貌の皇后とやや影の薄い天皇との対比で、下々のファン心理、民間出の皇后と言う事もあり、浮気天皇へのヤッカミ 判官贔屓や華やかさで 人口に膾炙した部分もあったんでしょうナ。
ただ万葉集の中でのこの夫婦の歌には、それぞれ哀しみを感ずる内容なんだそうで、絶世の美女もそれを貰った婿殿も、哀しくてどうするッて言いてェやネ。世の中 キリゃぁねえネ。
東大寺と大仏は切っても切れないが、大仏殿の敷地が決まったのが、天平15年(743年)大仏完成が天平18年(746年)10月。反権力反主流派の行基が何故か一生懸命に勧進をしたようで、この遠州地方にも行基の創建になると言う寺がやたらと多いが、ぎょうきさんがギョウサンいたと言う事でしょう。どっちにしても1300年も前の事なんざァイイ加減でもイイの。
幾ら全国を勧進したとしても、当時の国力からすれば まァ権力者の横暴 馬鹿なプロジェクトと言えましょうナ。 記録によってマチマチだが、使用した銅・白銅が130トンと言われているんデ、国中の殆どの量じゃァなかったのかナ。賦課やら勧進やらで恐らく庶民は塗炭の苦しみ きっと泣いたゼ。現代もそうだケド 本当は偉くないのに偉いと思っている奴、これを「偉そう」とも言うが、下の苦労ガ判らねェてェ輩が一番いけねェナ。 ハイッ。