【1999年8月号】
【日本語 アリァ コリャ】
漢字仮名交じり文は千年の歴史があるので、「走り書きを仮名で書いて、カミさんに渡して清書させる」と言うメンバーに「そりャ無理だゼ」と言った手前、こんな話題で・・・・
どの漢字を使うかは、作り手の意図によるので、仮名を漢字に変えるなど、時として他人には出来よう筈がないもの なんでやんス。例えばですょ・・・・
「シャウニンはそのシャウニンのためにショウニンに立つことをショウニンした」
「上人はその商人のために證人に立つことを承認した」
井上ひさし「東京セブンローズ」より引用。(原文のまま)
漢字なしでは意味が通らないばかりでなく、作り手がどの漢字を想定して文を作ったかは、ほかの人には判りようもありませんし、誤字をあとで気が付く作り手は、何とも気分の優れないものですが、カミさんの方も迷惑千万てェ事。しかしネ・・・・
駄句を宗匠に添削して頂いて、余りの変わり様につくづく素質と感性のなさに愛想が尽き、宗匠の修行に益々畏敬を深めたことがありまして、その道の人に言われるのは素直に耳に入りますが、逆に素人に見当違いを言われるのは又 何とも胸糞悪いものですナ。
パソコンワープロは、ウッカリすると思いもよらない誤字を仕出かす代物なので、誤字脱字も多いかと思います。文章修行の真似事をした程度では間違いもありまして、出来るだけ気を付けなければと自戒しています。山頭火風に言うと「読み返しても 読み返しても誤字脱字」間違いは避け難いこともありますが、指摘された事が確信犯(?)で自信がある場合は むかっ腹が治まりませんナ。「広報は二度と御免と腹の虫」
又 「一擲乾坤を賭す」などと元の言葉を言う人は 先ず皆無。「大器晩成」も元とは違う意味で使われている様に、言葉は少しずつ意味が移動することもあり、金田一春彦は「情は人の為ならず」を最近の子供が「情を掛けても人の為にはならない」と、我々古代人がヒックリ返るような解釈をしているのを「いずれその様に 変化して行くのかも知れない」と喝破しているように、語源論・出典論のみで 作者に無断で文を直すなど論外。
「開眼」元々は「カイゲン」だが「俺はゴルフを開眼したゼ」の場合「カイガン」で間違いと言えるかどうか?私は出典・語源と通俗の意味は別物であるので、間違いとは分類していない。(お経を聴いててごらん 現代とでは読み方が随分と違うゼ)
遂行と完遂の「スイ」と「ツイ」程度は低学年としても、官僚やエコノミストの常套語の中で、「首長」クビチョウ。「県森連」ケンモリレン。「経常」ケイツネ。違うと言ってみても仕方のない事。上り下りのダイヤの乱れの時「上下20本」は「ジョウゲ」だし、上下両院とくりァ 「ジョウカ」。字は上下に付く言葉によって、読み替えなければならない事も多いヤネ。
「八幡」も神社は「ハチマン」。海賊船とくりゃァ「バハン」。駅は「ヤワタ」。九州はヤハタ。伊豆で「ハツンマ」。前後左右を読まなきァ判らねェ。鳴呼ア 南無八幡てぇナもんョ。
人にゃァ得手不得手てェもんも ありましてナ。押ッ被せはいけねェやネ。ハイッ。